ピエズ島










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

ピエズ島

(Piedu、現在の呼称はPiru)

img078.jpgファウロ島よりピエズ島を望む。
 戦史に通じている方の中でも、この島の名前をご存知の方はかなり少ないのではないだろうか。なにしろ、長さ3.8km、最大幅1.8kmという大きさの無人島である。ソロモンの他の島々と違って大きな戦闘の舞台となった訳でもない。終戦後の短い時期に、捕虜となったナウル、オーシャン両島守備隊およびブカ、ブインからの海軍将兵がこの島と、隣のマサマサ島で暮らしたのだが、マラリアが猛威を振るい、引揚を目前に多くの病没者を出した、そういう歴史を持つ島である。

ピエズ島の惨状

 ナウル通信会の発行した「ピエズ島‐続ナウル守備隊の記録」はその事情を以下のように記している。『ナウル守備隊は昭和二十年度の連合艦隊編成表では第四艦隊に属し終戦処理を米軍が担当していれば真っ直ぐ元気で内地に帰れたはずなのにナウル・オーシャン両島はオーストラリアの行政区であった為豪州軍が担当し遠くソロモン群島に強制連行されブーゲンビル島トロキナでは炎天下に豪州軍の銃剣に追い立てられ強行軍を強いられた、そして数日後、次の収容所ブーゲンビル海峡に浮ぶピエズ島に再び移送された。―中略―トロキナの朝昼夕食も支給せず、また一滴の水も与えず二十名の死者まで出した二十KMの強行軍といい、ピエズ島では原住民も住まないマラリア蚊の猛棲息地に抑留させ薬剤も与えず僅かな食料を支給して栄養失調に陥いれ半数近くの四百名の人命を死に至らしめた―後略―』

 よく知られているように、マラリアは中間宿主であるハマダラカの唾液腺に寄生するマラリア原虫が、蚊の吸血時に血液中に入り赤血球内で分裂する際に血球を破壊して高熱、頭痛関節痛や譫(せん)妄などの症状を引き起こす。三日熱、四日熱、卵型、熱帯熱の各種があり、この中で症状が重く致死率が高いのが熱帯熱マラリアだが、悪いことに、ソロモン諸島はこの熱帯熱マラリアの一大流行地である。ナウル・オーシャンからの部隊(以下ナウル部隊とする)はマラリアに対する備えがなく、ブーゲンビル島で降伏した部隊より脆弱であった。

 健康体で免疫が機能していれば、それでも発病しなかったり、しても重篤な状態に必ずしもならずにすむのだが、栄養不良に重労働(生存者の証言では豪軍はやしの根起こしなどの全く意味の無い使役を強いたという)で消耗していたため、余計にマラリアに対する抵抗力を失いピエズ島到着後に次々と患者、死亡者を出す。たとえばピエズ島を三つに分けたうちの一つ、第11区の乙隊(ナウル部隊)は800名のうち「病臥せざる者僅かに100名」(「ピエズ島」より)となり、昭和21年1月21日までに363名の死者を出している。

img101.jpgピエズ島に残る、海軍部隊のパン焼きかまど。
 このような窮状に対し、もちろん収容者たちはあらゆる手を尽くして対策を講じている。平尾正治著「海軍軍医戦記」(図書出版社)には、『堀医少佐は愛用の高価なドイツ製顕微鏡と交換で豪州軍司令部ウィルソン軍医少佐から貴重なアデブリン四千錠を入手、これを十一区乙隊に投入した。これによって猛威をふるったナウル部隊のマラリアも漸く衰えを見せはじめた。なお堀軍医少佐はナウル部隊救援の為決死隊を募り岡田勇二衛生兵曹長以下六名が夜陰に乗じてカヌーでブーゲンビル島ブイン地区に潜行して「呉七特」本部付近に埋めたアデブリン二万錠を掘りおこし持ち帰った』との記述がある。こうした献身行為が無ければ、1000人を越える死者を出していたかもしれない。

 この事件は流石にオーストラリアでも問題になり、豪州議会で取り上げられたそうだが、日本では余り知られていない。市販されている本でこの事件に触れたものもは少ないが前掲の平尾正治氏の著書、また大槻巌著「ソロモン収容所」(図書出版社)などがあり、最近のものでは秦郁彦他監修「世界戦争犯罪事典」(文芸春秋社)に「ナウル守備兵の死の行進」として簡単に紹介されている。もし豪軍が、ナウル部隊がマラリアに抵抗力がないと知りつつマラリア汚染地にキャンプを設営させ、予防薬も満足な糧食も与えなかったとすれば犯罪的な不法行為であり、会田雄次著「アーロン収容所」にある、英軍が飢えた日本兵に赤痢蟹を半ばわざと食わせたという記述を彷彿させるものがある。終戦後の戦病死とあっては、ご本人もご遺族も実にやり切れなかったに違いない。

 しかし、蛇足ながら付け加えると、ナウル・オーシャンに関連しては、日本側にも汚点が無い訳ではない。ナウルでは戦時中1200名の島民がトラックへ強制疎開させられたが、戦後帰還できたのはそのうちの737人に過ぎないという(平凡社「オセアニアを知る事典」)。約400人もが命を落としたのは日本軍も苦しんだ食料不足のためとは想像するが、ナウル島民に対し不適切な取り扱いが全く無かったとも思えない。また、日本軍がナウルのハンセン病患者を海上で射殺したと記述する本があるが、これについては裏付けする資料を探しているところである。またオーシャン島では、終戦後に住民殺害の不祥事があった旨、前掲の「世界戦争犯罪事典」に記されている。

 これらについてはナウル部隊の関係者がご覧になれば大変不快に思われることは承知しているが、敵側の非道のみ指摘するのは公正を欠くと考え、敢えてご紹介する次第である。不愉快な記述については平にお詫びするしかないが、だからといってナウル部隊将兵が豪軍の不法行為に遭っても仕方ない、当然の報いだと考えている訳ではない。オーシャンでは連合軍の法廷で責任者が処罰(首謀者は死刑)されているし、ナウルの2件についても約4,000人の守備隊の中で関与したのは極く少数だったのではないか。何れにせよ過去のことで誰かを非難、弾劾すべきとは全く考えていない。今はただ、亡くなられた島民および将兵のご冥福をお祈りするのみである。ピエズ島の惨劇と合わせ、戦争の狂気について考える機会ともなれば幸いに思う。

img102.jpgピエズ島からファウロにボートで帰還。右手の前方後円墳のような形の島がピエズ島、左端がマサマサ島。

ナウル・オーシャンについて

 日本軍がナウル島、およびオーシャン島を占領したのは、ガ島戦の最中の昭和17年8月下旬のことである。戦史叢書第62巻「中部太平洋方面海軍作戦(2)」によれば、9月2日に予定されたナウル攻略作戦には第一次ソロモン海戦で戦果を上げたばかりの「夕張」、「夕凪」の2艦と筥崎丸、第三一駆潜艇が参加するはずあったが、作戦実施日を前に、駆逐艦「有明」がナウルを砲撃した後の8月25日「有明」乗組みの将兵で編成した陸戦隊を上陸させ占領してしまった。26日には全島の掃討を完了、同日オーシャンも「夕暮」陸戦隊が無血占領している。

 ナウル、オーシャンの占領目的は飛行場の確保のみならず、両島に豊富に産する燐鉱石が目当てであった。日本でも北大東島や委任統治領のアンガウル島で燐鉱石を産出しているが、戦争中では火薬と肥料の原料になる燐鉱石はいくらあっても足りなかったことがわかる。終戦時、両島に駐屯していた部隊は海軍第六七警備隊と横須賀鎮守府第二特別陸戦隊である。

 現在、ナウル(166度56分E、0度31分S)は一島でナウル共和国(1968年独立)をなしているが、これが実に特異な国である。かつては燐鉱石の輸出と、得られた資産の運営で日本やアメリカに匹敵する高い国民所得(95年1人あたり33,476ドル:「データブック オブ・ザ・ワールド」二宮書店刊)を持っていたが、これは隣国キリバスの910ドルの実に37倍である。だが、富を生み出してきた燐鉱石はすでに枯渇しており、栄華が去った後に残されたのは荒れ果てた自然と成人病だけ、となりつつある。ナウル政府の財政は破綻に瀕しているようであり、国際電話回線の維持が出来ずに一切の通信が途絶する事態が近年発生している。資産運営をやってはマネーロンダリングに手を貸して列国の非難を浴びたりと、話題には事欠かないため、あまり知られていない国ながら、少数の熱烈な「追っかけ」がおられるようだ。ネット上でこれらの事情や旅行記がいくつもあるので、興味のある方はネット検索をされてみては如何だろう。

 オーシャン島(169度35分E、0度50分-55分S)は現在キリバス共和国(旧ギルバート諸島)の一部であり、バナバ島(Banaba)と呼ばれている。ナウルより先に燐鉱石を掘り尽したが、贅沢な暮らしに身を浸していたわけではないからか、ナウルと違いこれといった話は聞こえてこない。ナウル、オーシャンも私のいつか行ってみたい場所のリストに名を連ねている。以前は鹿児島空港にナウル航空の直行便が乗り入れていたが、現在は日本からのフライトは無い。国営ナウル航空も破綻し、今は"OUR AIRLINE"と名を変えて生まれ変わってソロモンのホニアラおよびキリバス共和国のタラワへと週に1便ずつ飛ばしている。

ピエズ島行き

 私がこの島を訪れたのは昭和63年、厚生省派遣の遺骨集集団に参加してのこと。東京からマニラ、ポートモレスビー、キエタ、ホニアラ、ムンダ何泊もしながら、バラレまでの飛行機を乗り継いだ。バラレからはチャーターしたスピードボートで、はるかにPNG領ブーゲンビル島を見ながら国境の海を1時間ほどでファウロ島に着く。この島に宿舎を置いて、1週間滞在して海上6kmの距離に浮ぶピエズ島で集骨を行った。ピエズ島での作業は5日間で、66柱の御遺骨を発掘した。マラリア犠牲者を埋葬した地はいかにもハマダラカの生息していそうな沼に面したゆるやかな斜面にあり、頭を山の方に向け、1mほどの間隔で埋葬地点が並んでいた。

img103.jpgピエズ島で初めて掘り出した御遺骨を捧げ持つ

img104.jpgピエズ島集骨風景img105.jpgやっと掘り出した御遺骨
img106.jpgファウロの浜辺で焼骨の準備。シートの上で御遺骨を整理する。img107.jpg準備完了。祭壇にお神酒、果物をお供えする。

幸いというべきか、昭和62年から始まった同地での日本政府による遺骨収集事業で、ピエズ及びマサマサ島での遺骨収集をほぼ終えている。なお、近年行われたマサマサ島での遺骨収集事業について、在ソロモン日本大使館の館員が外務省のページに書いておられる。
国民に冷たいなど、最近とかく批判の多い外務省だが、こういう、通常日の当たらぬ事業に関心を持つ外交官もおられるのである。私が遺骨収集に参加した際に会った大使館員の方々もとても親切に対応してくださったのを、この記事を見て思い出した。

img108.jpg井桁に組んだ丸太が炎を上げるimg109.jpgピエズ島と焼骨の炎。

 ピエズ島に行ってから既に16年が経つが、私の人生での最も印象的な体験のひとつとして、折りにふれて当時の写真を眺めては思い出している。8年ほど前になるが、靖国神社遊就館を訪れたときに、階段下にひっそりと「ピエース島シャコ貝」と説明書きのある、50cmほどの大きさの貝殻が置いてあるのに気づいた。最近訪れた際にはなくなってしまっていたが、「昭和四十六年ブーゲンビル島、ファウロ島遺骨収集全国派遣団」が奉納されたとの説明だった。

 ファウロ島からの復員者の手記を何冊か読むと必ず、海で大きなシャコガイを採っては飢えをいやしていたとの記述があって、奉納の貝殻にこめられた万感の想いをを想像せしめて余りある。このシャコガイは今も恐らく遊就館の倉庫に保管されていることであろう、次回訪れたら奉納された経緯など調べてみたいと思う。