ブーゲンビル島脱出記
Escape From Bougainville
先に待ち受けるのが何かも知らず、飛行機でブーゲンビルへ向かう
ブーゲンビル島には世界最大級の多国籍鉱山会社であるリオティント社の子会社、Bougainville Copper Limitedが経営する世界有数の産出量を誇るパングナ銅山があって、パプア・ニューギニア(PNG)の国家財政を支えていた。かつてPNG経済は「3つのC」、すなわちCopper、Copra、CacaoあるいはCoffeeを足して「4つのC」で持っていると言われたものだが、その稼ぎ頭がこの鉱山の産み出す銅鉱だった訳である。が、この宝の山が地元に利益をもたらさずに富を外国資本と本土人の一部が独占していること、鉱山が汚染物質を垂れ流しにしていること、また鉱山労働者としてPNG本土などから違う民族が入ってきのトラブルが頻発することなどで蓄積された地元の不満はまったく顧みられることなく、ついに爆発することになる。
1988年(昭和63年)、それまで不調に終わっていた鉱山会社との補償交に見切りをつけた地元の不満分子はブーゲンビル革命軍(Bougainville Revolutionary Army: BRA)を組織し、武装闘争を開始した。もともとメラネシア(ソロモン、ニューギニア、フィジーなど含む地域)社会には部族(言葉が同じとの意味で、血縁社会をワントークと呼ぶ)意識が強く、他の部族に襲われる、侮辱を受けるなどした際は部族単位で全力で復讐(ペイバック)してきた社会である。武器が未発達であった頃はまだよかろうが、20世紀後半にはPNGでも自動小銃が手に入るようになってしまった。結果、この年の暴動発生から1997年の停戦までにブーゲンビル島民18万中1万2千人とされる死者(豪州David Worner氏)を出すことになる。
こんな大変なことが起こっているとは露知らず、平成元年3月、大学3年の春休みに2週間ほどソロモン諸島を旅行した帰途、私は親友と二人で暴動が勃発したばかりの島へとのこのこやってきたのであった。ブーゲンビル島東海岸中央部のキエタに3月20日着、翌21日キエタからポートモレスビーに飛んで相棒はシンガポールへ、私はグアムへを経由して帰国する予定を立てていた。キエタには前年、昭和63年度政府遺骨集集団に参加して立ち寄ったときに泊まったことがあったので、一泊を島南端のかつての日本軍根拠地ブインで過ごすことにしていた。
ソロモンのムンダを発った飛行機からキエタの空港に降り立ったとき、5ヶ月に来たときと前と随分雰囲気が違うことに気付いた。飛行機が降りると通常どこからともなく大勢の人々が集まり、ホテルの送迎やら家族の出迎えやらをする人、それに何の関係もなさそうな人々でごったがえすのだが、それらが殆どない。飛行機から降りた人々があっという間にいなくなり、ほとんど空港の周りが無人となる。タクシーなどというものはこの島にはないらしかったが、通りがかる車を止めて乗せてもらおうを思っていても、ほとんど通る車もない。小一時間も待って、やっとブイン方面に向かう車を見つけ、交渉して乗せてもらった。ずいぶんオンボロのトラックの荷台である。
ほとんど人影の無いキエタの空港。 | キエタからブインまで便乗したトラック。 |
キエタからブインまで、3時間ほども掛かっただろうか。途中、丸太やら木の枝やらを道に倒して車の走行を妨げている箇所がいくつもあり、その度に停止して障害物を除けたり、徐行したりでやたらに時間が掛かった。こんなときに襲撃されたらひとたまりもない(そう思ってカメラを隠しておいたので、写真を撮っていないのが残念である)が、幸いに無事ブインに到着。ブインの街に入る直前には峠があって、樹海に山がいくつも聳える光景は絶景であった。 ブインではブインロッジという宿に連れて行ってもらったが、ウォーリーという中国人オーナー、これが安っぽいヒゲをはやしたまるで映画に出てくるインチキ中国人ような外見だったのだが、彼には随分高い宿代を吹っ掛けられた。2人で一泊100米ドル位だったろうか、PNGは物価が高いのだが、それにしても高い値だった。自炊するから、晩飯は要らない、と交渉してまけてもらった。だがウォーリーも貧乏旅行の学生に吹っ掛けたことを済まないと思ったらしく、後で飯を炊きコンビーフに玉葱を炒めたようなおかずを作っていると卵を恵んでくれた。 |
略奪に遭う前のブインストア。 | 商品が散らばる路上に集まる人たち。 |
こんな物騒な島は一刻も早く立ち去るに限る、と空港まで連れて行ってくれる車を探すのだが、こんな日に車を出したがる者がなかなか見つからなくて焦った。それでも何とかトラック便を見つけ、ポートモレスビー行きの飛行機に間に合う時間に町を出ることができた。だがしかし、ブーゲンビルはそうやすやすと帰らせてくれる島ではない、「早くブーゲンビルを立ち去る」計画は空港が近づいて来ると無残に崩壊する。 ブインからキエタの空港までの道を前日と同じく障害物を除けながら行ったが、空港に近づくと、かすかに煙が上がっていて、いやな予感がする。建物が見える距離になると、空港ターミナルが放火されて崩れ落ちているのが分かる。滑走路の脇には、駐機している小型機が目茶目茶に大破しているではないか。大変なときに居合わせたと、暢気なわれわれもやっと深刻さに気付いた。 |
見事に焼け落ちたターミナルビル。 | 事件が起こってから出動したのであろう、 あまり頼りになりそうもない兵士たち。 |
残骸をさらすBOUGAIR航空の小型機。 | 人影のない、ゴーストタウンのようなキエタの町。 |
次なるテロの標的となりそうなキエタの町にいるよりはブインに引き返したかったが、乗せてくれたトラックの運転手は他に行くところがあるからちょっと待ってくれ、といってとわれわれ2人をキエタのダバラ・ホテルに置き去りにして何時間も帰ってこなかった。待たされるのはまあ良いが荷物はトラックに載せたままで、保険が掛けてあるから最悪盗られてもいいものの、撮影済みフィルムを入れてあったのが何とも痛い。途方に暮れながらも半分暢気な気分で待っていると、親切な現地人が日本人の名刺を見せてくれた。困ったことがあったら訪ねて見ればよい、と言ってくれるが困ったことは名前の漢字が読めないことだった。沓掛○○と書いてある名刺をひっくり返してみたら、ローマ字が書いてあった。くつかけと読むそうだ。『沓掛時次郎』というタイトルの映画があったのを思い出すが、どういう内容かは全く知らなかった。沓掛氏にはお世話にならずにすんだが、いざとなれば頼れる日本人がいるというだけで幾分心の支えになった。 ダバラ・ホテル前でひたすらに車を待つ。ホテル玄関のガラスには戒厳令の知らせが貼られている。結局、「ちょっと」のはずが午前中一杯くらい待たされたもののブインには帰れたので、頼りなさそうだけれども警察署に行って保護を求める。まったくやる気の無さそうな警官が応対してくれたが、パスポートを出せというから見せたのに、5分くらいもしげ しげと見た挙句に、「このパスポートには問題がない、君達は不法滞在でないことを認める」とだけ言って、まったく頼りにならない。警察に保護して貰えないのは分かったが、ではポートモレスビーまで行く方法は無いかと尋ねると、ブーゲンビルの北方の島、ブカに渡れば便があるかも知れないという。この騒乱の島の南端から北端まで行って船でブカに渡り、来るかどうかあてにならない飛行機を待つ、というのは冒険に過ぎたし、現金もほとんど底をついていた。諦めてブインロッジに戻ったが、このとき警察署に泊めてもらおうなどという気を起こさなくて本当に良かった。というのもその晩また騒ぎがあって、ブイン警察署が火柱を上げて燃えたからだ。このときも寝ようとしているときに騒ぎ声を聞き、外の様子を窺ってわれわれのホテルが襲撃対象でないことを確認したのは前夜と同じだが、今度は少々大胆になって外に出てみた。半ばヤケになり、炎上する警察署を撮ってやれ、と停めてあったトラックの荷台にカメラを置いてスローシャッターを切る。肌の色が闇の中に容易に溶け込んでしまう現地の人々と一緒に、しばし火事場見物を続けた。 |
ブイン警察があてにならず、警察署の前庭に飾られる日本軍野砲に呆然と腰掛ける相棒。 | 炎上する警察署。ブイン二夜目にはカメラを固定して長時間露光を試みるほど大胆になっていた。 |
警察署が燃えるまえに島を出る方法について宿の主人ウォーリーと相談していたのだが、流石にわれわれを気の毒に思ってくれたらしくて翌日ソロモン諸島のバラレ(ブインからスピードボートで約1時間)を出る飛行機がある筈だから、バラレまでのスピードボートを手配してくれるという。第一印象の実に悪い男だったが、こうなると命の恩人に見えてくる。そして、警察署襲撃の後であまり眠れぬ夜を過ごすと、翌3月22日早朝約束どおりに船着場のある隣村(エレベンタだったかと思う)まで連れて行ってくれる車が来た。船着場といっても、ジャングルの中の小川みたいなものである。ここでは随分待たされたが、あきれたことにやってきた船頭がいい気分に酔っ払っていて調子の外れた歌をわめきながら現れた。だが酔ってはいても、遅れてはいても、現れてくれたことに感謝すべきだった。 |
船着場にて船を待つ | 船頭は酔っているが、いよいよ出発。 |
いざ出港してみると船頭は酔っ払っているし、川から海に出るところはとても波が高く、ボートが転覆しまいかと心配したものだったがそこは流石に海の男、酔いも覚めた様子で波の来る方向に船首を向け、危なげなく操船している。エンストすることもなく、順調にバラレに到着した。 |
海に出るときには緊張したが、何事もなく航海は進む。 | バラレに無事到着、上陸する。念のため飛行機が来るまで船頭には待っていて貰う。 |
さて、バラレには着いたが、問題はそこからである。われわれ2人は飛行機の予約はおろか飛行機代すら持っていない。バラレは無人島であるから入国管理など無く、われわれは不法越境者である。まぁ、ブーゲンビルで暴動が起こっていることはソロモンでも知られているだろうから無闇に追い返されたりはするまいが。頼りといえば、ムンダの飛行場長のローレンス・キブレ氏を前回の訪問で知っているので、彼に頼み込むしかない。 |
陸攻の操縦席に座ってご機嫌な私。 | 待ちに待った飛行機が着いて、放心する。 |
ジャングルを出て待合所に戻り待つことしばし、かすかに爆音が聞こえ、飛行機の姿が見える。旅客機としては小型の部類に入るツイン・オッター機だが、何とも頼もしい機影であった。エンジンが止まるのを待ちかねて白人の操縦士に話しかけ、交渉するとそれほど議論もせず、ムンダ飛行場とちょっと無線で交信し、ムンダまでは乗せてくれることになった。ありがたい、もっと根堀り葉堀り訊かれるかとおもったのだが。 |
キブレ飛行場長に事情を説明する相棒。横には空港に遊びに来ていたドーソン氏(前年、遺骨の出た現場に案内してくれた人)。 | ソロモン大洋ノロベースにて、カツオの水揚げ。獲れたてカツオは流石に美味かった。 |
ベースにはちょうどカツオ漁から帰った漁船が何隻も入港していて、何とも勇壮な雰囲気である。夕食ではその獲れたてのカツオをたたきにしていただくが、久しぶりの日本食というだけでなく、ちゃんと調理された食事もブーゲンビルに着いて以来だったので無遠慮にがつがつと食べてしまった。しかし、隣のテーブルで食べている人たちも日本人のはずなのだが、大声の会話がすこしも聞き取れない。沖縄の八重山諸島の漁師さんだというが、判別できたのはエンジン、バケツなどの外来語だけだった。 ノロで一泊のあと首都ホニアラに渡ったり、旅行の前半で知り合った青年海外協力隊員たちのところに行き、事情を話すとみな面白がって聞いてくれた。文無しのわれわれはその中の一人、自衛隊出身の船外機保守整備の隊員のところに泊めていただいた。ホニアラのエア・ニューギニの事務所に行って使わなかった(使える訳がない)キエタ・ポートモレスビー間の航空券を払い戻し、お守りのように持っていたクレジットカードで新たにホニアラ・モレスビー間の券を買い、何とか無事に帰国することができた。 |
恩人の高橋マネージャーにお礼を述べるべく、ホニアラのソロモン大洋事務所を訪ねる。 | ホニアラに着いた晩、青年海外協力隊主催の日本語スピーチ・コンテストに招待され、さらにこの後隊員宅に泊めていただく。 |
この旅行では飛んで火にいる夏の虫、とばかりに危険なところにわざわざ行ってひどい目にあったものだが、運良く人々のご好意に救われて無事に帰れたものの、一歩間違えたら命を落としたかもしれない。旅行に行くときには事前の情報収集を十分にすべし、と肝に銘じたものであった。ブイン、キエタ、バラレ、ムンダ、ノロ、ホニアラで親切な人々に助けられたことは忘れられない。また、一人でなく、どんな状況でもパニックにならない性格の親友と一緒であったのも心強い限りであった。ちなみに、この体験が縁となり、大学卒業後に親友は大洋漁業(現マルハ)に就職、私は青年海外協力隊に入隊することになる。2人のその後の人生を左右することになる貴重な体験を与えてくれた、意義深い旅であった。 |