富士川丸










太平洋の戦跡を訪ねて 
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富士川丸

FUJIGAWA-MARU

img254.jpg富士川丸の船首部分とダイバーたち。平成4年12月29日撮影。

 トラック環礁の代表的沈船であり、恐らく最も多くのダイバーが訪れる船であろう。マストが海面に突き出るほど浅い場所に沈んでいること、船首と船尾に砲を備え、飛行機という申し分ない見物材料が積荷としてあることなどが今も人を惹きつけている。英語ではFUJIKAWA-MARUと表記されているが、本来の読みはフジガワマルである。

img255.jpg今も海面に突き出す富士川丸のマスト img256.jpgもう一本のマストは根元から折れている
img257.jpg船首の6インチ砲台img258.jpg船倉の入り口とボートダビット
img259.jpgこれらは砲弾の薬莢であろうかimg260.jpg靴底と6.5mm小銃弾
img261.jpg第1船倉積荷の一つ、航空魚雷img262.jpg魚雷の尾部

 富士川丸は昭和13年三菱重工で建造され、東洋汽船に所属して戦前北米航路の貨物船として就航していた。水線長132m、総トン数6,938tで、同型船に鬼怒川丸、昭浦丸、和浦丸がある。富士川丸は開戦ちょうど1年前の15年12月に海軍に徴用され、航空機運搬船として使われる。

 同船はトラック環礁内に停泊中に3月17日1430、バンカーヒルおよびモンテレイから発進した攻撃隊の雷撃を受け、うち1本が右舷中央部に命中、水深42m地点にわずかに傾いだ姿勢で着底した。「知られざる戦没船の記録」によれば、幸いにこの時戦死者を出してはいない。

 わたしが富士川丸に潜ったのは12月29日の1本目のダイビングのこと。第一船倉で砲弾、小銃弾などを見た後で第二船倉に潜降して、眠れる飛行機の群れに出会った。

img263.jpg第二船倉2番目の零戦操縦席後端部分。キャノピーの枠が残る。

img264.jpg2番船倉に散らばる飛行機部品 img265.jpg零戦二一型のものと見られるカウリング
img266.jpgプロペラに前部風防を潰された零戦img267.jpgメーター類が残る、零戦の計器盤
img268.jpg零戦の翼端折りたたみ機構img269.jpg九六式艦上戦闘機のコクピット

 積荷について予め調べていなかったので、零戦だけでなく九六式四号艦上戦闘機を見つけたときには興奮した。だが、残念ながら船倉に長くは留まれない。マストを水面に突き出すほど浅瀬に沈んでいるとはいえ、船倉の水深は27mあり、減圧なしでいられる時間は長くない。零戦、九六式艦戦の写真を数枚づつ撮影すると浮上して再起を期した。

 翌30日、ダイビングサービスに富士川丸をリクエストすると、運良くフジカワに行くボートがあるという。このサービスはボートを何隻も持っていて、この時期は客が多いので行き先が幾通りか選べるのである。今度は第一船倉に目もくれず、まっしぐらに第二船倉を目指す。早く行かないと、他のダイバーが船倉内の沈殿物を巻き上げて透明度が悪くなってしまう。船倉内には流れが全く無いので一度シルト(沈泥)を巻き上げると容易には視界が回復しない。暗い船倉内を撮影するのには持ち合わせの感度100のフィルムでは不安であり、また増感現像すると粒子が荒れるためになるべく避けたかったので、感度400の白黒フィルムをカメラに装填しておいた。どうせ色彩豊かな世界ではない。

 一日ぶりの御対面で、船倉内に零戦3機分の前部胴体があるのを確認する。どれもエンジンは装着されておらず、操縦席後端で分割された状態。1機目はドラム缶の山に埋もれるようにしていて、プロペラで前部風防を潰されており、また操縦席後端も大きく潰れている。この機は計器がほとんど揃っているのが珍しい。2機目はキャノピーの枠が前部のはほぼ完全に残っており、後部にもいくらか残っている。操縦席内に座席灯が長く伸びているのが印象的である。後から見ると操縦席の後に酸素ボンベが2本残っているのが分かる。残る1機は風防が全部無くなっている。計器盤も酷い状態だが、操縦桿、フットバーは残っている。この機は機銃整備パネル周辺の形状から、二一型であることが明瞭に見て取れる。

img270.jpg第二船倉に残るドラム缶の山img271.jpg1機目零戦の操縦席と後部胴体
img272.jpg大きくひしゃげた1機目零戦の後部img273.jpg2機目零戦の操縦席後方に置かれた酸素ボンベなど
img274.jpg2機目零戦を覗き込むダイバーたち。フラップが少し出ているのが分かる。img275.jpg2機目零戦の操縦席を後から見る。
img276.jpg2機目零戦のコクピット。座席灯の根元にあるのは紫外線灯であろう。img277.jpg座席灯が伸びる操縦席を上から見る。座席上には琺瑯びきの海軍食器か。
img278.jpg3機目零戦の操縦席 img279.jpg計器盤のアップ。機銃、計器は無し。
img280.jpg九六艦戦の操縦席周り。外翼は無い。img281.jpg同じ機体を真横近くから見る。
img282.jpg九六戦の計器パネル。零戦と比べると随分小さく感じられる。img283.jpg九六戦の胴体後部と尾翼部分。方向舵、水平尾翼はなし。

 さて、これらの飛行機のうち九六式艦戦だが、この時期に何故富士川丸に積まれてトラックに来ていたのか、大いに頭を悩ますところである。というのも、大戦初期に活躍した零戦二一型も昭和19年2月の時点では既に旧式とみなされていて、さらに3年古い設計である九六戦は完全な旧式機であって、この時期に前線に運ばれるところだっというのが大変不自然なのである。

 では、日本から届いたのではなくて日本に送り返す飛行機だったのだろうか?ちょうど、最近発刊になった「零戦パーフェクトガイド」(学研刊)に零戦のロジスティックス(兵站)についての解説があって、手ごろな参考書となる。同書には、「重大な破損、故障を起こした機体や、長時間使用されて消耗した期待は実施部隊から各航空廠に戻された。これを還納と呼んだ。 

-中略- 前線に近い特設航空廠に還納された機体は、修理ののちに再使用できる状態であれば、廃却せずに内地から新製機を送り届けた船に載せて戻された」とあり、またトラックには南東方面航空廠の第一支廠があったことも書かれているところから、南東方面の前線から還納されて内地に移送される途上だったのであろうかと考えられる。

 ドイツ人ダイバーのリンデマン氏の著作(大変な労作である)には、富士川丸は「天山」艦攻30機をトラックに運んできたが、その天山は荷揚げされたばかりで組み立てられることもなく銃爆撃の餌食になった旨(終戦後に語った日本海軍士官の証言による)が記されている。そうすると、天山を降ろした後の船倉に零戦と九六戦を積んだということになろうか。

 だが、そうすると一つ分からないことがある。同じ船内にドラム缶や砲弾、小銃弾、魚雷等多くの軍需品が山積みになっているか、これら軍需品を降ろしてから還納機を積まないとおかしい。少なくとも、零戦等の詰まれた2番船倉の積荷は一度全部揚陸したのでないと理屈に合わない。それとも、ドラム缶も空になって日本に送り届けられるところだったのか。ドラム缶が何箇所かにかたまっているのはドラム缶が恐らくは航空燃料、または潤滑油など、何らかの液体で満たされていたことを物語っている。ドラム缶が空であったら沈没の際に浮き上がって船倉の開口部から出て行った筈だし、船倉の天井に引っ掛かって後で浸水して沈んだのであればもっと分散していなければおかしい。また、空のドラム缶が飛行機の下敷きになることもありえない。日本に向かう便だったのであれば、還納機と満タンのドラム缶が同居しているのがどうにも不自然である。

 この謎を解き明かすには、富士川丸の航海記録を調べる必要がありそうだが、それが何時になるものか、例によってまったく見当がつかない。しばらくは分からないことを楽しむしかなさそうである。

img284.jpgマストの折れた部分。素材の鋼板が意外と薄いことに驚かされる。img285.jpgこれは扇風機に見えるが、やはり扇風機であろうか。

img286.jpgこの6インチ砲は鹵獲品らしく、1899年製造の刻印があるという。

img287.jpg船首をしばし散歩したのち、名残を惜しみつつ浮上した。