ガダルカナル島(2)










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

ガダルカナル島(2)

(Guadalcanal)

img043.jpg財団法人南太平洋戦没者慰霊協会がアウステン山麓に建立した ガダルカナル島戦没者慰霊碑。右手後方にサボ島が見える。

アウステン山(Mt. Austen)

 ガ島を代表する激戦地の一つであるアウステン山。昭和17年10月の総攻撃の際にはこの山の南麓を迂回する「丸山道」を通って敵飛行場へと日本軍が進撃し、ガ島戦後半にはこの山をめぐり熾烈な争奪戦が繰り広げられた。良く知られるように、アウステン山の守備にあたっていた百二十四聯隊長岡明之助大佐は、ガ島撤退命令を知らされずに山中に軍旗を埋めて敵の包囲を脱した行動を咎められ、軍旗を取りに山に戻って戦死している。この軍旗は、十数人軍旗捜索隊の唯2人の生き残りの1人、聯隊旗手の小尾靖夫少尉が腹に巻いて部隊の手に戻ったが、軍旗を取り戻せたのは奇跡であったのか、連隊長以下戦死者の執念の結実であったのか。

 小尾少尉とアウステン山といえば、もう一つ有名なものに小尾少尉が「人間の限界」と題して発表した手記がある。昭和18年が明けるころ、アウステン山の守備隊将兵に流行した「不思議な生命判断」について書かれたくだりは戦史叢書に引用され、孫引きされてガ島戦を扱ったほとんどの本にきまって出てくる。「立つことのできる人間は・・・寿命は三十日間」と始まる一文は、ガ島戦史をひもといた方なら一度は目にしたことがある筈である。「この非科学的であり、非人道的である生命判断はけっしてはづれなかった」という一節が、ガ島戦の悲惨さを何よりも不気味に物語っているように思えてならない。

 アウステン山北面の標高115m地点、かつて米軍が第35高地と呼び砲兵陣地を設けた場所(全国ソロモン会のHPより)には、財団法人南太平洋戦没者慰霊協会(現(財)太平洋戦争戦没者慰霊協会)が建立した慰霊碑が立つ。ガダルカナルは先の大戦における最も有名な戦地のひとつであるが、以外に思われることに日本政府が建立した慰霊碑は無い。日本政府の方針としては一方面に一基の慰霊碑のみ建てることとされ、南東方面については政府建立の碑はラバウルに「南太平洋戦没者の碑」があるのみである。このためか、私が昭和63年政府派遣のソロモン諸島遺骨収集団に参加した際にも、帰路ラバウルに立ち寄って慰霊式典を前述の公式慰霊碑前にて行っている。

img044.jpg慰霊公園には、天才彫刻家と呼ばれながらもガ島で惜しくも戦死した、高橋英吉の彫像「潮音」が置かれ、いまも海を見つめつづけている。img045.jpg日英2ヶ国語で刻まれた、慰霊碑の碑文。
img046.jpgアウステン山よりシーホース高地、エスペランス岬方面を望む。img047.jpgアウステン山の米軍記念碑と薬莢を売る子供たち。

 アウステン山の北西面には現在「ギフ高地」と呼ばれる一角がある。「ギフ」は岐阜のことであり、岐阜出身の兵がここを守っていたことから米軍がこの一角をギフ高地と呼んだという。この地で奮戦し玉砕したのは歩兵百二十四聯隊(岡部隊)第二大隊と二百三十八聯隊第二大隊(稲垣部隊)であり、岐阜の兵とは後者は名古屋で編成された後者の部隊に属していたのであろうか。この激戦地にも「稲垣部隊奮戦之地」の木製慰霊碑が建てられていたが後に「岡部隊奮戦之地」の石碑に建て替えられた。

img048.jpg「稲垣部隊奮戦之地」慰霊碑(昭和63年撮影)後に石碑に建て替えられた。img049.jpgギフ高地より、ヘンダーソン飛行場、ムカデ高地方面を見下ろす。

タサファロング(Tassafaronga)

 タサファロング(またはタサファロンガとも)は日本軍の補給拠点であり、第二師団、第三十八師団がこの地に上陸している。このタサファロング海岸のボネギ川河口付近には、擱坐放棄されてから60年以上を経たいまも「鬼怒川丸」が赤錆びた船体の一部を水面上に見せながら眠っている。また、付近には「鬼怒川丸」と同日にタサファロングに突入した「宏川丸」も沈んでいて、ダイビングで訪れて船倉内などをことができる。

 「鬼怒川丸」(6,936t)は東洋海運所属の貨物船であったが陸軍に徴用され、昭和17年11月15日、第三十八師団主力を輸送して「宏川丸」、「山月丸」、「山浦丸」とともにタサファロング海岸に突入、擱坐した。これら輸送船からの物資揚陸は夜明けと共に来襲した敵機の攻撃により中断、陸揚げされた弾薬糧食はわずかな量であったという。この輸送の際、「鬼怒川丸」では船員33名の犠牲を出している(「知られざる戦没船の記録」より)。

img050.jpgタサファロング海岸より鉄底海峡とサボ島を望む。img051.jpg鬼怒川丸の残骸。後方はフロリダ諸島。
img052.jpg海から見る鬼怒川丸。平成9年1月撮影。img538.jpg宏川丸の船倉に泳ぐカスミアジの群れ。平成9年1月。

ビル村戦争博物館(Vilu Village)

 ガダルカナル島西部のタサファロングとエスペランス岬のちょうど中間付近、内陸部に少々入ったビル(Vilu)という村に私設の戦争博物館がある。博物館といっても建物も何もなく、露天の敷地に無造作に大砲や飛行機の残骸などを並べただけのもので説明書きも無い。行けば、オーナー家族が案内してくれる。ただし、日本軍の重砲をドイツ製と解説するような、随分怪しげな説明である。展示物は日米の兵器が入り乱れているが、周辺のジャングルや草原に埋もれている残骸をこつこつと集めたのであろう。敷地内には両軍の慰霊碑も建てられている。

img539.jpgブッシュナイフ(山刀)を手に得意げに説明する博物館オーナー。img575.jpg日本軍戦車の砲塔とオーナー父子
img592.jpg博物館の庭に並ぶ日米の慰霊碑img593.jpg 戦没者の冥福を祈る平和の鐘

ヴィル村戦争博物館の展示兵器写真はこちらLinkIcon

エスペランス岬(Cape Esperance)

img041.jpgガ島北西部カミンボ付近を上昇中の飛行機より、エスペランス岬、鉄底海峡とサボ島を望む
 昭和17年10月の総攻撃失敗後、日本軍は敵の猛攻に圧迫され、飢えに苦しみつつもマタニカウ川からクルツ岬の一帯で敵の進撃をかろうじて喰い止めてはいたものの、補給が絶望的な状況ではいずれ戦線が崩壊するのは時間の問題であった。このような状況下の昭和17年大晦日に大本営はガ島の放棄を決定、18年2月1日、4日および7日に行われた「ケ号」撤収作戦で残存将兵はガ島北西端のエスペランス岬と、その南西カミンボから駆逐艦に乗艦してガ島を離れ、半年におよんだガ島戦は終了する。エスペランスとはフランス語で「希望」を意味するが、"Lonely Planet"等の記述によれば1793年、この地域を探検したフランス船団の一隻、"L'Esperance"にちなみ、船団の司令官であった航海家ブルニ・ダントルカストーが名付けたものという。地獄の島から撤退する日本兵にとってはこの地はまさに「希望」そのものであったろう。しかしながら、撤退の知らせを聞きながら負傷のため、飢えのため歩くことが出来ず自決せざるを得なかった兵たち、あるいは撤退に取り残された将兵の万斛の恨みをたるや、想像するだに胸に迫るものがある。

img594.jpg上空から見たエスペランス岬img595.jpgエスペランス岬より内陸部を望む
img596.jpgエスペランス岬からはサボ島がすぐ目の前に見える。img597.jpg岬に近いビサレ村の教会。戦闘で破壊され、戦後再建されたもの。

カミンボ/タンベア(Kamimbo/Tambea)

 ガ島戦中日本軍の補給の拠点のひとつとなり、最後の撤収の舞台として有名なカミンボであるが、現在のガ島の地図にはこの地名は出ておらず、一帯は今はタンベアと呼ばれている。日本軍の撤収の地に近い浜辺にはリゾートホテルが建ち、庭には「第二師団勇会」の建立した慰霊碑の他、飛行機の部品や撤退する部隊が置いていったと思われる歩兵砲が無造作に置かれていた。しかし、1990年代のガダルカナル島民とマライタ系住民との民族紛争でリゾートは閉鎖されて荒れ果ててしまったといい、慰霊碑などが現在どのような状態か気に掛かるところである。

img598.jpg日本軍が撤退した砂浜img599.jpgリゾートの庭の慰霊碑
img600.jpg雑多なプロペラの並ぶリゾートの庭。手前のペラは日本機のではあるまい。img601.jpgプロペラ、星型エンジンなど。
img602.jpg右と同じ飛行機残骸の尾部と九二式歩兵砲。img603.jpgタンベア・リゾートの飛行機の垂直尾翼。道を挟んで放置されていた零戦のものか。

 タンベアリゾートから道を挟んで反対側には1機の零戦の残骸があった。外国人に売ろうと付近の海中から引き揚げられ、商談不成立で放置されていたものという。「ある」でなく「あった」と過去形で書かねばならぬのは悲しいことだが、平成9年1月に三度目のソロモン訪問の際に見たのは変わり果てたバラバラの姿であった。民家の敷地を拡張するのに邪魔だったので住民が処分したのだろうか。こんな残骸でも何百万円か出して買いたい人間が日本にも外国にもいたであろうが、ガ島の住民にとっては戦争遺物など珍しくも何ともなく、何の価値もない異物に過ぎなかったのに違いない。ソロモン諸島政府は観光資源にもなる戦争遺物の国外持ち出しを厳しく禁じるなどして保護しているが、住民には全く縁の無いことで、保護政策が知られていそうもないことが見て取れる。

img031.jpg林の中に横たわる零戦の残骸。操縦席周りと主翼のみの姿だが、零戦の特徴が一目で見て取れる。(平成元年3月撮影)img604.jpg同じ残骸の8年後の姿。周辺の樹木の成長も著しく、大分暗いのがお分かりいただけるかと思う。(平成9年1月撮影)

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