ニュージョージア諸島
(New Georgia Islands)
ムンダのアグネスロッジの壁に描かれたニュージョージア島周辺の地図。私が指さしているところがムンダで、左端の島がギゾ島。平成元年3月撮影。
ムンダ(Munda)
ムンダより南方にレンドバ島を望む。
ガダルカナル島総攻撃挫折後の昭和17年12月13日、ここムンダにはラバウルからガ島を攻撃する飛行機の中継飛行場が完成するが、皮肉なことにこの直後には大本営はガ島放棄を決定し、ムンダ飛行場は日本軍に利用されることなく米軍による奪取の目標となった。ガ島撤退から約4ヶ月後の18年6月30日には米軍はムンダ南西にあるレンドバ島に上陸、さらに7月5日にはニュージョージア島のムンダ東方に上陸する。ムンダを守備する南東支隊は善戦し、約1ヶ月にわたって激戦を交えるが8月4日には飛行場が占領されてしまう。
現在のムンダは小ぢんまりした実に居心地の良い場所で、飛行場のほかには郵便局/電話局が一緒の建物と、小さなリゾートホテルがあるのみだが、飛行場に敷地を接しているそのアグネス・ロッジというのが私の大のお気に入りである。このため、これまで私が3回ソロモン諸島を訪れた際は、毎回この場所に立ち寄っている。
これが私が世界で一番気に入っているリゾートである「アグネス・ロッジ」。 | ホテルに土産物を売りに来ていたソロモン人親子。客がが品定めする間じっと海を見ていた。 |
ムンダ「アグネス・ロッジ」前の桟橋にたたずむ、夕暮れどきの子供たち。 | ニュージョージア周辺には無数の小島があって、「松島や、ああ松島や」の句そのままの世界をつくっている。 |
昭和63年のピエズ島行きの際には、ムンダに滞在しながらピエズ島地主でもあるムンダ飛行場長のキブレ氏と入島条件交渉中、遺骨出土の情報があって裏山(戦争当時の呼称馬蹄山)に緊急出動し、3柱の御遺骨を日本に持ち帰ることができた。
昭和63年10月ムンダ滞在中、裏山に緊急出動して遺骨収集。 | ムンダの御遺骨。焼畑の際に発見されたらしい。 |
畑から出てきた日本軍の手榴弾と擲弾筒弾。手榴弾は九一式か。 | 飛行機の翼の破片だが、もはや型式を知るすべもない。 |
三八式歩兵銃の銃身。 | ムンダ裏山の住人たち。 |
ムンダの日本軍慰霊碑と現地の子供たち、飛行場長キブレ氏と。合掌する形の慰霊碑というのは良くあるパターンなのだろうか、グアムの慰霊碑はこれをもっと大きくした形をしている。 | 慰霊碑に置かれた仏像は首が落とされていた。大洋州ではキリスト教が強いので時として「異教」への強い仕打ちが見られることがあるが、あるいは単なる悪戯かも知れない。 |
ギゾ(Gizo)
*平成19年(2007年)4月2日午前6時39分(日本時間同日午前5時39分)、ギゾ北東沖合でグニチュード8.1の地震が発生、その後来襲した津波によりギゾの街は壊滅的打撃を受けました。5月初旬までに判明した死者数はギゾで33人、ソロモン全国で52人とされ、さらにこれに倍する行方不明者があるとされます。この甚大な被害に対し、心からお見舞い申し上げ、亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表したい思います。
東亜丸の船首。平成元年3月撮影。
ギゾ(Gizo)はギゾ島(Ghizo)南東端にある、ホニアラに次ぐソロモン第2の都会である。とはいっても一本のメインストリートの両側に何軒かの商店、ホテル、小映画館などがあるに過ぎないのだが。ギゾ島(発音は同じだが、英文表記だと町の名と島の名前のつづりが異なり、ややこしい)北岸には海軍徴用船「東亜丸」が沈んでいて、ソロモンの代表的な沈船ダイブポイントとなっている。戦没船を記録する会編「知られざる戦没船の記録」(下)によれば「東亜丸」は大阪商船所属の貨物船で6732トン、昭和18年1月30日沈没、この際船員1名が戦死したとされる。
ギゾホテル内のダイブショップで配っているプリント(ニュージーランド人Charles Darby氏の資料よりと説明あり)では説明が異なり、東亜丸の沈没日は1月31日である。この説明によれば、東亜丸は同日ラバウルを出港してコロンバンガラ島ビラ港に軍需物資を運ぶ途上、ニューアイルランド島のコーストウォッチャーの通報を受けてガ島ヘンダーソン飛行場を発進したSBD12機、F4F8機(うち2機は発動機不調のため引き返す)の攻撃を受けて沈没している。
東亜丸は右舷を下に水深37mの砂地に横転しており、最浅部の水深は7mである。船倉には積荷のドラム缶、酒瓶、弾薬類の他、九五式軽戦車が見られる。私は平成元年のソロモン行きの際には、立ち寄ったサイパンでダイビングCカード(認定証)を取得していて、認定後2本目のダイビングをこの東亜丸で行った。このときは超初心者であったのでまともな写真がほとんど撮れず悔しい思いをしたもので、平成9年の再訪の折にもう一度この場所でダイビングして、「リベンジ」を果たした。
船首方向から見た東亜丸。平成9年1月撮影(以下の写真全て同じ) | アンカーのアップ。 |
船首甲板上のウインチ | ボートダビット |
デッキから船倉に伸びる梯子。凶悪な面構えのゴマモンガラが墓守として見張っているかのよう。この魚は営巣中は攻撃的になり人間にも襲い掛かるが、噛まれると何針か縫うほどの怪我をする。 | 沈没の原因となった左舷前部船体の破孔を内部から見る。ダイブショップの説明によれば東亜丸を攻撃した敵機には雷撃機が含まれていないので、魚雷ではなく爆撃によるものである。 |
クリップにはさまった,6.5mm三八式実包(小銃弾)。きれいに並んでいるのはダイビングガイドが見やすい場所に置いたのであろう。 | 散乱するビール瓶など。これらもガイドが並べておいたものと思われる。 |
積荷の九五式軽戦車。 | 前方から見る戦車。 |
ギゾのダイブショップの外に飾られている日本機のプロペラ。見たところバラレの空港にあったのと同じ型と思われる。 | スピナーのアップ。右向きの矢印の中の文字は「ペラ廻 転方向」と読み取れる。矢印と文字記載部のアップ。 |
ケネディ島(Kennedy Island)
ケネディ島の全景。実に小さな島である。平成元年3月撮影。
もともとプラムプディング(Plum Pudding)島という名前であるが、ジョン・F・ケネディ大統領にちなんでケネディ島と名づけられた。ケネディ大統領(当時海軍中尉)は昭和18年8月2日、艇長として乗組んでいた魚雷艇PT-109で哨戒中に駆逐艦「天霧」の体当たりで艇体を分断されて脱出、4.8kmを4時間で(ナショナル・ジオグラフィック2002年12月号の記載。この号には海中に横たわるPT-109の写真あり)泳いでこの島にたどり着き、6日後に救出されている。平成元年3月にギゾを訪れた際、東亜丸に続いてこのケネディ島の浅瀬でダイビングした。
アグネスロッジの壁画から、ギゾ、ケネディ島周辺の地図。FERGUSSONのFの左がケネディ島。 | ケネディ島の水中。ダイバー認定後3本目なので酷い写真なのは御容赦あれ。ファンコーラルを示すダイブガイド。 |